東日本大震災から今日で11年目をむかえました。
いま日本では、南海トラフ地震や日本海溝・千島海溝沿いの巨大地震が懸念され、「津波」の発生も予想されています。
そこで今回は、東日本大震災を経験した者として、その経験を次の災害に生かすべく、津波に遭遇・避難した体験談をお伝えしながら、災害への備えを確認していきたいと思います。
私は宮城県で被災し、いまも住んでいます。同じ東日本大震災を経験しても、状況が異なれば全く違う見方になる部分もあると思いますが、よろしければ、最後までご覧ください。
地震は当然おきるもの
私は、東日本大震災を経験するまでは「地震はきてほしくない」とだけ思っていました。
もちろん、いまでも「きてほしくない」という気持ちはありますが、今は「地震は当然おきるもの」であり、地震の規模によっては「津波もくる」と思っています。
「地震も津波もくる」と思っているので、その時に困らないよう「備蓄」をし、「命を守るための行動」がとれるよう、防災に必要な情報を入手できるようにしています。
大地震の後、無事を災害用伝言板に残した
地震が発生したとき、私は職場でパソコンに向かっていました。14時46分、それまで経験したことのない大きな揺れに、私は一瞬頭の中が真っ白に。上司の「机の下に潜って!!」という叫び声にハッとしたことを覚えています。
状況が少し落ち着いた合間に、私は携帯電話の災害用伝言版に「無事です。いまは職場。このあと帰宅します」とメモを残しました。
地震後、電話はつながりにくくなるため、とにかく「自分の無事を携帯電話に残しておこう」と思ったのです。
職場からの避難経路を確認していなかった
私は、職場に迎えに来てくれた両親とともに、車で自宅に戻ろうとしていました。まさか自分たちの所にまで、津波がくるとは思っていなかったのです。
しかし、川を見て津波がくるとわかった父が、海から遠ざかるよう運転していたものの、すぐ渋滞に巻き込まれました。
全く進まない状況のなか戸惑っていると、前から一人の女性がドライバーに声をかけている姿が見えました。私たちの車に来たその女性は「この先はもう進めない状況です。Uターンしてもらえませんか」と話してくれたのです。
来た道を戻ることに私は恐怖を感じたのですが、Uターンできる状況にあったため、その言葉どおり行動しました。後に、その道にも津波は襲ってきました。
それまで私は、職場からの避難経路をまったく考えたことがありませんでした。自宅が高台にあることもあり、津波に対して備えるという感覚は全くなく、ハザードマップさえ見たことがありませんでした。
地震の怖さとは異なる「津波」の恐ろしさ
Uターンして避難を続けていると、普段なら通らない道に入っていました。
そして、数メートル先の曲がり角から、まるで巨大な生き物が猛スピードで這っているかのように、津波が迫ってくるのが見えたのです(高さは30㎝程かと思います)。
急いで車から降り、近くにあったアパートの階段を上り2階に逃げると、あっという間に周囲に水が押し寄せ、どんどん増えていきました。
津波の速さは、「速い」という言葉だけでは足りないと思うほどで、その恐怖感は、地震の揺れによる怖さとは全く異なるものでした。
テレビで津波の映像が流れますが、その場にいたら、もっと速く感じると思います。
たった1枚の膝掛けでも暖かい
私は職場を出るとき、エプロンは付けたまま、そして膝掛けを持っていました。いつもならそうしないのですが、地震の揺れで動揺していたのか、その時は持ち出したのです。
フリース素材の膝掛けは1枚でも暖かく、暖がとれない避難先ではとても助かりました。
この経験から、私は寒い季節になると、バッグにはホッカイロを入れ、さほど寒くない日でもマフラーなどの防寒具は持ち歩くようにしています。
外出先で津波がくるとわかったら、どこに避難できるか
津波から避難した先のアパート2階の外廊下には、他にもたくさんの人が避難していました。
私の隣では、小学生の男の子が「死にたくないよ」と泣き、「木にしがみついている人」「つないだシーツを窓からぶら下げ、平屋に住む隣人を救助しようとしている人」の姿もありました。
水面から車の屋根だけがあちこちに見える状況に、私は現実を受け止めきれずにいたのですが、父と男性数人は、この先も津波が止まらなかった場合「どこに・どうやって逃げられるか」と、必死にシュミレーションしていたのです。
自宅や職場など、いつもいる場所からの避難先はイメージしやすいものの、休日の外出先など慣れない土地での避難先となると、すぐには思いつかないのではないでしょうか。
津波からはいち早く、高い所へ逃げなければいけません。
不安な状況でも励ましあう力が支えになった
幸いにも私たちは、アパート室内へ入ることができました。同じ場所に避難していた、そのアパートの大家さんが、住人の方へ「中へ入れてもらえないか?」とお願いし、20代と思える男性が受け入れてくれたのです。
近所の方が、ラジオを持って避難していたおかげで、被害情報などを聞くことができました。
たとえ同じ情報の繰り返しであっても、何も音がなく暗い中での避難は、精神的にも厳しいと感じます。
私たちはパンを分け合い、流れないトイレを男女関係なく使用しながら、余震が繰り返される一晩を共に肩を寄せ合って過ごしました。
男性の方たちは、木につかまり続けていた人を救助し、ずぶ濡れになって戻ってきました。
私が妊娠していると知った、ある男性の方は「必ずここから一緒に出るからな!!」と力強く励まし、女性の方は「お腹を温めて」とタオルを渡してくれました。
何人かの人が、つながらない119番にかけ続けたり、ボートで救出に向かっている自衛隊の方が照らした明かりに応えるなどして助けを待ち、私たちは翌朝、自衛隊の方たちに救出していただきました。
この日はじめて会う方たちでしたが、声を掛け合い励まし合うことがもたらす力を、私は身に染みて感じました。
自宅での避難生活で役立ったもの
その後、私は実家で避難生活を送ることができました。ライフラインが復旧するまでの間「あって助かったもの」をご紹介します。
◆避難生活で役立ったもの
・カセットコンロ
冷凍していた食材を調理して食べることができました。冷凍ごはんと梅干しで作ってもらったお粥で、とても体が温まりました。
・自転車
水を自宅に運ぶ際に役立ちました。ガソリンや灯油が買えない状況が続いたため、今ではガソリンは半分になったら入れる・灯油は多めに買っておいています。
・こたつ、石油ストーブ
こたつは電気が通っていなくても、ある程度の暖かさがありました。寒い時期の停電時の備えとして、石油ストーブはなくてはならないと感じています。
・赤ちゃん用おしりふき
お風呂に入ることができないので、とても重宝しました。清潔を保てる状態は、精神的なメリットも大きいと感じています。
・お風呂の残り湯
トイレに使うことができました。備蓄トイレは備えていなかったので、残り湯がなかったら、実に多くの水が必要とされました。
※追記:下水道管の破損など状況によっては、トイレに水を流すことを控えたほうが良い場合もあります。
・スポーツドリンク
程よい甘さと、ビタミンが入っているものはサッパリ感もあり、水分補給としてだけでなく、気持ちをリフレッシュすることにもつながりました。
日々の暮らしのなかで災害に備える
東日本大震災が発生する16年前の1995年(平成7年)1月17日、阪神淡路大震災(マグニチュード7.3、最大震度7)が発生しました。
私はいま、そのときの教訓があり、それを生かしていただいたからこそ、救われた部分がたくさんあると感じています。
だからこそ、東日本大震災を通じて見えたこと・感じたことを、率直に書かせていただきました。
この防災新聞は、経験も住んでいる地域も異なるメンバーで作り上げていますが、「防災に役立つ情報を発信したい!」という想いは、みんな同じです。
今回お伝えした災害への備えについても、これまでの記事で取り上げてきた点がたくさんあります。
ぜひ、防災新聞を日々の生活に取り入れて、これからの防災に生かしてほしいと切に願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
(以上)