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安政南海地震を知る2つのキーワード「津波」「稲むらの火」
11月5日は「津波防災の日」そして「世界津波の日」です。
これらの制定には、今からおよそ170年前に発生した「安政南海地震(あんせい なんかいじしん)」での出来事が関係しています。
この地震では各地に大きな津波被害をもたらしました。そして津波からの避難誘導に関する「稲むらの火」の実話が有名です。
本記事では「安政南海地震の概要」とこの地震を語り継ぐ「石碑の存在」、そして「津波防災の日との関係」についてお伝えします。
江戸時代におきた大地震について学び、これからの防災・津波対策に生かしていきましょう。
安政南海地震の概要
はじめに「安政南海地震(あんせい なんかいじしん)」がどのような地震だったのか、いくつかの資料をもとにお伝えします。
マグニチュード8クラスの大地震
安政南海地震は今からおよそ170年前に発生しました。
「発生日時・震源地・地震の規模」は次のとおりです。
発生日時:1854年11月5日午後4時頃
内閣府「災害概略シート」より引用
震源地:紀伊水道・四国南方沖
発生日の11月5日は旧暦であり、新暦では12月24日です。
地震の規模:マグニチュード8.4、最大震度7
NHKアーカーブス 災害「1854年 安政南海地震(稲むらの火)」より引用
近年日本で発生し震度7を観測した地震には、兵庫県南部地震(阪神淡路大震災:1995年1月17日発生)や熊本地震(2016年4月14日16日発生)、そして東北地方太平洋沖地震(東日本大震災:2011年3月11日発生)があります。
これらの地震をみると、いかに安政南海地震も巨大であったかが想像できるのではないでしょうか。
30時間前の大地震|安政東海地震
これほど大きな揺れをひきおこした安政南海地震ですが、実は発生およそ30時間前にも同規模の地震がおきていたのです。
それが「安政東海地震」とよばれるもので、東海沖および熊野海岸沖を震源として発生しました。
ともに、プレートの境界で発生した海溝型地震であり、大きな津波被害をもたらしたのです。
これら2つの巨大地震をあわせて「安政地震または安政大地震」とよばれています。
元号が変わるきっかけにもなった
では、ひきつづき「安政南海地震」の概要をみてみましょう。
この地震の「被害状況」は、次のとおり非常に甚大なものでした。
この地震による全国的な被害は全壊家屋20000余戸、半壊家屋40000余戸、焼失家屋2500余戸、流失家屋15000余戸、死者約30000人と推定されている。
防災システム研究所「安政南海地震」より引用 ※太字は筆者加筆
実のところ、安政南海地震がおきたときの元号(げんごう)は「「嘉永(かえい)」でした。
しかし、安政東海地震および安政南海地震という巨大地震の発生、そしてその前年にはペリー率いる“黒船来航”という大きな出来事もあり、これらが元号を変える契機になったと言われています。
そのため、2つの地震の発生は年表上では安政元年にあたるため「安政」がつけられているのです。
ちなみに、各期間は「嘉永(かえい)1848年2月28日~1854年11月27日」そして「安政(あんせい)1854年11月27日~1860年3月18日」となっています。
大津波に襲われた
そして、海溝型地震である安政南海地震は、各地に大きな津波被害をもたらしました。
たとえば、高知県中土佐町の久礼(くれ)では16メートル、和歌山県の串本(くしもと)で15メートル、そして高知市の種崎(たねざき)では11メートルが観測されたといいます。
【参考文献】NHKアーカイブス「1854年 安政南海地震(稲むらの火)」
安政南海地震を語り次ぐ石碑
このように、安政南海地震は大きな津波をもたらしましたが、その事実を知る手がかりとして各地に石碑が建てられています。
ここでは「大阪市にある石碑」と「関連する“40の石碑”を映像で見ることができるサイト」をご紹介します。
大阪市浪速区|石碑の文字に墨を入れ継承
安政南海地震では大阪湾にも津波が押しよせ、多くの船や橋が破壊・船に避難していた人など700人あまりが亡くなったとされています。
実は当時、人々は地震の揺れによる住宅の倒壊からまぬがれるため船に避難していたのです。
船への避難は安政南海地震から約150年前におきた地震(宝永地震)でもおこなわれており、津波によって多くの犠牲者がでていました。しかし、それが十分に語り継がれることなく、くり返されてしまったのです。
このような背景のもと、安政南海地震のあと大阪市(浪速区)には石碑が建てられたといいます。
そして、現在でも石碑の文字には事あるごとに墨が入れられ、二度と同じ悲劇をくり返してはならない、その教訓を伝えるべく地域の方々によって引き継がれているのです。
【参考文献】
*NHK 関西ブログ|石碑の墨入れで伝える 津波の教訓
*内閣府防災情報のページ|「第3章 安政東海地震・安政南海地震の災害教訓例」24頁
災害記念碑デジタルアーカイブ|碑文の概要もわかる
「災害に強い社会の実現」を目標にかかげる防災科研(NIED)のサイトでは、災害記念碑デジタルアーカイブマップを開設しています。
災害記念碑とは災害の被害や教訓などが記された石碑のことです。
このサイトでは、石碑がある場所が地図上で示されるほか、石碑に書かれている内容・建立日といった詳しい情報を知ることができ、安政南海地震に関しては“40”もの石碑があります。
また、詳細ページでは3Dによる3次元の映像を見ることもできるので、ぜひご覧になってはいかがでしょう(石碑はこちらからご覧になれます)。
安政南海地震「稲むらの火」とは?
安政南海地震は旧暦11月5日に発生しましたが、現在この日は「津波防災の日」に定められています。
それには、この大地震における一人の男性の行動が関係しているのです。
稲に火をともして避難誘導
先述のとおり和歌山県内には15メートルもの津波が押し寄せました。
このとき、醤油屋の当主「濱口梧陵(はまぐちごりょう)」が、津波から逃げ遅れている人がいることに気づいたのです。
しかし辺りはすでに暗くなっていたため、彼は刈り取った稲に火をともして避難を誘導したとされています。
「津波防災の日」制定へとつながった
この実話にちなみ、11月5日が「津波防災の日」に制定されたのです。
そして、和歌山県には「稲むらの火の館」が建てらており、館内には「濱口梧陵記念館」およに、ゲームや映像で学べる「津波防災教育センター」があります。
「稲むらの火の館」のホームページでは、館内を360°VRパノラマで見ることができるので、ぜひご覧になってはいかがでしょう。
まとめ
今回は「安政南海地震の概要」と「語り継ぐ石碑の存在」、そして「津波防災の日との関係」についてお伝えしました。
主な点を下記にまとめます。
安政南海地震の概要
- 発生日時:1854年11月5日(新暦12月24日)午後4時頃
- 震源地:紀伊水道(きいすいどう)・四国南方沖
- 地震の規模:マグニチュード8.4、最大震度7
この地震では大きな津波被害がありました。
- 安政南海地震のおよそ30時間前、同規模の「安政東海地震」が発生。
- どちらの地震も海溝型地震であり、各地に津波被害をもたらした。
- 大阪市浪速区にある石碑では地域の人が事あるごとに石碑の文字に墨を入れ、その教訓が引き継がれている。
安政南海地震「稲むらの火」と「津波防災の日」との関係
- 濱口梧陵(はまぐちごりょう)は、津波から逃げ遅れた人たちを誘導するため、刈り取った稲に火をともした。
- この実話をもとに、安政南海地震の発生日11月5日が「津波防災の日」に制定。
来年2024年は安政南海地震発生からちょうど170年となります。災害に区切りはありませんが、ひとつの節目として過去の災害をふりかえり、未来に備える機会にしてみてはいかがでしょう。
【参考文献】
*NHKアーカイブス|1854年 安政南海地震(稲むらの火)
*NHKアーカイブス|1854年 安政東海地震
*YAHOO!災害カレンダー|安政東海地震・安政南海地震
*内閣府防災情報のページ|報告書(1854 安政東海地震・安政南海地震)
*Weblio|安政南海地震
*防災システム研究所|安政南海地震
*内閣府防災情報のページ|災害を語りつぐ3「安政南海地震津波(1854)」
(以上)